783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と真理に達した人々は語る。
修行僧が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって思考の運動を立ち上げて誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは修行が進んでいる人である、と真理に達した人々は語る。
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